介護体験/患者家族のAさん
夫がHDでした。結婚すると決めてから結婚式の準備に取り掛かったころに、夫はなぜか、何もかも人ごとのように自分から何をするでもなくなり、「どうしたんだろう?」と思いました。夫の両親はすでに他界していましたので、姉夫婦に挨拶に行き、夫は私の両親にも会いました。しかし、式の段取りが全く進まず、周囲から「結婚式はどうするのだ?」と急かされるようになりました。
結婚式を済ませて、しばらく共働きで同じ職場で働いていましたが緊張が続く毎日でした。夫が意地悪になり人格が変わってしまったからです。職場でもトラブルが多くなり体調を崩したこともあり、会社からは退職を促されました。その際に親戚に相談したところ、「舞踏病*注」という病名を告げられました(*注:以前はハンチントン舞踏病という疾病名でしたが、症状が多岐にわたるため舞踏という言葉が削除されました)。
医療機関への受診を勧めましたが、夫は「病院になんか行くもんか」と反対しました。ソーシャルワーカーに相談したところ「もう動けなくなるまで待つしかない」と言われ、医療機関につなげるまで12年かかりました。
胃ろうを造設してからは福祉支援サービスを利用して在宅療養をしていました。でもHDの症状には睡眠障害もあり、夜は眠らず怒り散らしていましたので私も眠れない毎日でした。専門医に相談して医療保護入院させました。病院では患者の保護のため両手・両足・胴体が拘束されていました。しかし、そのような状態の夫の姿を見る勇気がなく、そのまま家に帰ろうとしたら、看護師さんから「今、ご主人に顔を見せてあげないとお互いにずっと心残りになるから辛いでしょうけど顔を見せてあげてください」と言われてしまいました。そのとき、どう表現したら良いのか分からないほど恐ろしくて、怖くて、後悔の念で一杯でした。
家族としてHDに対応することは、一言で言うと「厳しい」です。HDの患者さんは、自分がなぜ腹が立っているのか、なぜ人から言われることに納得がいかないのか、自分自身で理解していません。HDの症状ですので、家族は患者さんに変化が現れるまで我慢しなければなりません。HDの患者さんは普通では考えられないような暴言を吐き、とんでもない行動をとります。一言で我慢するといっても限界もあります。これは介護する自分との闘いでもあります。
介護者は毎日必死です。その中から自分自身を見つけるのも大変難しいことですが、一瞬でも落ち着く時間があったら、『自分を自分で褒めてあげる。』これが秘訣です。私はいつも「よくやっている、頑張っている、えらい!」と褒めていました。それから、出来ることなら保健師やソーシャルワーカーなど第三者に患者さんと介護者の間に入ってもらうことも大切です。
最後に私の経験から、アドバイスは次のとおりです。
・自分が直面している介護の難しさや厳しさなどを話してください。
・HDの患者さんは、第三者と介護者とを見分けて態度を変えます。
・第三者の前ではとても良い患者さんになり、介護者には実態を現します。そのため第三者には、介護者の話は大げさだと思われてしまって、まともに取り合ってもらえません。
・また、メモやノートに書き留めることも絶対的に有効です。私はヘルパーさんとの連絡ノートに書き留めて、3日間一睡もしていないことを知ってもらいました。
患者会に参加して/アトリスク Bさん
次世代の会(*)で、同世代のアトリスクの方々とゆっくりお話をすることができました。 話題は、結婚や将来のこと、告知を受けたときのこと、自分は遺伝子検査を受けたいか否か、が中心でした。皆さんとお話をしてみて、遺伝子検査を受けたい方や知らないままでいたいという方、告知を受けた時の状況も全く違い、どんな形で告知をうけたかったか考え方は人それぞれだなという印象を受けました。
ハンチントン病と向き合うなかで悩むこともたくさんありますが、考え方は一つでなくてもいいし、自分の状況や感情によって変化してもいいのかなと思いました。「こうでなければならない」「自分でこう決めたから」という考え方を持たないことで少し楽になれるような気がします。
これからも定期的に連絡を取り合い皆さんと繋がっていることができればと思います。
(*)次世代の会は日本ハンチントン病ネットワーク(JHDN)の有志により、不定期に開催されるアトリスク(将来、発症する可能性を持つ人たち、at-risk)の方々の集まりのこと。
診断/アトリスク Cさん
私の母親がハンチントン病と診断されたのは、今から約8年半前になります。ずっと以前から精神状態が不安定でとても怒りっぽく、また身体のふらつきが徐々に顕著になっていき、どう見てもどこかが悪いと思っていました。しかし、母親本人が病院嫌いで、なかなか受診してくれないまま月日が流れ、「あなた(私自身)の結婚式が終わったら受診する」という約束を取りつけ、検査を行い病名が付きました。初めて耳にする病名でした。初めはこんなにも大変な症状があり、しかも遺伝性であることも理解しないまま、当時、既に発症していた親戚の家族に呼び出されました。そこで初めて、私はこの病気の詳細を知りました。
その時の自分の感情は、驚きだったのか絶望だったのか、実はあまり覚えていません。ただ 心の準備が全くできていない状態のまま、病気と遺伝の全てを告知された状態でした。そして日々絶望の気持ちと不安が大きくなっていきました。その日から無我夢中でネットの情報 をチェックしました。その後、大学病院の担当医から交流会のことを聞き、叔母と夫と3人で会に参加しました。当時は毎日が不安で、片時も頭から病気の事が離れない日々を送っていました。何年間もそうだった気がします…。そんな中、約3年半前、悩んだ末子供を産み、それから今日までの日々は多忙極まりなく、病気のことを考えない日々も増えて、忘れて生活を送るようになっていました。交流会も、子供がいることも理由の一つですが、病気のことを考えてしまう状況に自分の身を置きたくない一心で、しばらく参加しませんでした。
しかし、以前から「次世代の会」があったら参加しようと決めていました。とにかく同じ境遇の方と会って話がしたかったです。気持ちを分かち合えたらいいなと思っていました。 次世代の会に参加して、それぞれの方の今置かれている状況や考えを聞くこと ができ、また自分のことも包み隠さず話すことができて嬉しかったです。もっと時間をかけて、もっとじっくり話したいと強く思いました。そして今後も皆さんとつながっていたいと思いました。次の会の実現を願う日々です。
遺伝カウンセリングを受けた感想 /アトリスクDさん
私は8年程前、遺伝カウンセリングを受けました。結婚、出産と、その都度at-riskという事と向き合って、悩み、選択をしてきました。出産してからは、子供を持てた喜びと日々の生活に追われ、at-riskである事を考えなくなりました。
子供が2歳になった頃、私はもう発症しているのではないかという恐怖に襲われ、精神的に病んでしまいました。しばらく距離をおいていたJHDNと連絡をとり、面談や電話相談をして頂きました。みなさん親身に話を聞いて下さり、とてもありがたかったです。でも、みなさんはボランティアだし、それぞれの生活もあるので私の不安に付き合わせてしまうのが申し訳ないし、頼りすぎてはいけないと思いました。
そこで、遺伝カウンセリングに行く事にしました。遺伝子診断をするためではなく、お金を払って遠慮なく話を聞いてもらうためです。遺伝カウンセリングでは、今までのこと、今思っている事を聞いてもらいました。すっきりしたようなしないような……。慰めてもらったり、他の方の話をしてくれたり、人生計画を立てなさい、働きなさい、保険に入りなさいとも言われました。人生計画を立ててくる事が次回の宿題となりました。その時の精神状態ではそんな事考えられませんでした。ほとんど何もしないまま、2回目のカウンセリングを受けました。楽しむ時は楽しみ、メリハリをつけると良いと言われたような気がします。2回目の記憶がほとんどありません。日が経つと共に精神状態も良くなってきて、落ちついていられるようになってきました。3回目の約束もしてきたのですが、私にはあまり行く意味のない気がして、キャンセルしてしまいました。
これが私のカウンセリング体験談です。遠慮なく話を聞いてもらえた事はよかったですが、あの時の精神状態で人生計画は考えられません。もう少し心に寄り添ってもらえたらよかったかなとも思いました。
(*) 参照 遺伝カウンセリングとは