リハ・療育園での生活-入所へ向けて-
JHDと告知されたあと、T先生から若年性ハンチントン病の進行の早さを聞き、生活を支えながら介護をする難しさに触れられ、医療施設の検討を勧められた。確かにその頃の私はクタクタに疲れ果てており、このまま自分が看続けて、Kちゃんを守ってあげることが出来るのか、とても不安になっていたのは事実であった。ただ、先生の気遣いは大変有難かったのだが、可愛いKちゃんを預ける気にはどうしてもなれず、思い悩んでいたのだ。
当時、働きに出ている時間だけ、隣町にある養育園というところで預かって貰っていたのだが、そこは歩ける事が条件だった。それでもしばらくは、歩けなくなった後でも頑張って看てくれていたのだが、ついにもう限界と言われてしまう。その後、更に足を延ばして、2つ先の町まで預かってくれる所を捜し求めた。が、料金が高すぎることや、距離がありすぎる問題で大きな壁にぶつかってしまう。そうこうしてるうちに、学校が冬休み、春休みとなり、その間仕事に出られない私は、生活と介護の両立の難しさを突きつけられることになる。そして、どんどん重くなるKちゃんの症状が追い討ちをかけて、私は一つの決断を自分に下すことになったのだった。児童相談所に何度か重い足を運び、医療施設への話を煮詰めていく日々・・。今でも思い返すと、あの頃ほど辛い時はなかった。一度決まりかけた入園の話を、土壇場で拒否してしまい、断ってしまうほど、私の心の中はグチャグチャだった。揺れ動く日々の中で、T先生の「このままの生活を続けていたら共倒れになる。」の言葉を、何度も何度も思い出し、
私じゃ、Kちゃんを助けてあげられない。病院に預けて安全を確保するんだ!、と自分に言い聞かせながら、再び医療施設への手続きを始める。どうせ入園させるのなら、T先生の目の届く範囲を望んでいた私は、こども病院に隣接するリハビリセンター内に、肢体不自由児施設の療育園があることを知り、そこを希望した。しかし、手続きの遅い児相に4ヶ月近く待たされ、私の決意も三度揺らぎそうになってしまった。
このことをT先生に相談すると、なんと、自分のことのように怒ってくれて、自ら児相に電話をかけて手続きを早めるように話をして下さり、リハビリセンターのDrに私の事情を書いた手紙を送ってくれたのだ。更に善意のリレーは続く!
リハのDrから話を聞いた療育園の園長が、これまた児相に怒りの電話を入れて下さり、手続きを期限付きで早めるようにしてくれたおかげで、あれほど待たされた処理が、わずか2~3日で済んでしまったのである。これだけ多くの方の思いやりのおかげで、告知を受けてから4ヵ月後の平成12年の4月19日から、Kちゃんは療育園に入所することになったのだった。Kちゃんが3年生に上がったばかりの春のことだった。
リハ・療育園での生活-入所したての頃-
Kちゃんが療育園に入園した当初は、家族から離れた寂しさでよく熱を出し、泣いていた。週末帰宅して帰園する時は、ず~っと泣き叫んでいた。その姿を見ると辛くて辛くて、自分が子捨ての鬼婆に変身しているようで、自分自身に嫌悪感さえ感じてしまってた。そんな泥沼の心理状態から救ってくれたのが、プライマリ(担当看護師)さんだった。「最初は、どのお子さんもみんな同じ。でもこどもは強いので、あっという間に慣れてくれるんですよ。Kちゃんは私たちがしっかりお預かりしますから、安心して下さい。」と何度も言って頂き、その言葉にどれほど救われたことだろう!プライマリさんの笑顔に、とっても勇気づけられて、後ろ髪引かれる思いでなんとかお別れするのだが、帰りの車中はいつも涙でグシャグシャだった。
しかし、プライマリさんのいった通り、Kちゃんは強い子であった!なんと頑張り屋のKちゃんは、入園した次の日、「学校へ行く~~~!」とせがんで、転校したばかりのS養護学校へ通いだしたのだ。通常、園に慣れるまでしばらくの間は、学校へは行かず、様子をみて落ち着いた頃、学校へ通わせるということらしいのだが、初日から型破りKちゃんを発揮していた。そして前の転校と同じように、S養護へ転校したばかりの次の月に運動会が開かれ、更に先生方の配慮のおかげで、Kちゃんは、リレーのアンカーに抜擢され大活躍!当日、発作を抑える薬のせいで睡魔が襲っていたにもかかわらず、アンカーを務めたKちゃんは、自分で車椅子をこいでゴールしたのだ。「Kちゃんガンバレ! Kちゃんガンバレ!」という大声援の中、誇らしげな顔をしてテープを切ったKちゃんは、あっという間に袖ヶ浦養護の生徒になっていた。学校大好きKちゃんにホントに救われた。週末帰宅後に園に戻っても、もうKちゃんは泣かなくなっていた。「おかあしゃん、バイバ~イ♪またネ~♪」とまで言ってくれるようになり、頼もしさまで感じるようになっていた。
そんなある日、私が病院に忘れ物をして戻った時のこと。聞き覚えのある泣き声が聞こえた。なんと、Kちゃんが泣いている。その直前まで「またすぐ来るから待っててね。」と言って「うん♪」と、ニコニコ顔でバイバイしたばかりのKちゃんが大泣きしているのだ。驚いた私は慌てて駆け寄り、「Kちゃんどうしたの?」と声をかけると、ハッとした顔のあと気まずそうに照れて泣き止んだ。あとでプライマリさんに聞いたところ、実は私が帰った後は、いつも泣いているらしく、私の前では泣かずに頑張っていたようだ。この話を聞いて、Kちゃんの男らしさにメチャメチャ心を打たれてしまった!泣かなくなったからといって、安心してしまった自分が情けない。「おかあしゃんも土曜日までお仕事頑張るから、Kちゃんもオトモダチといっしょに頑張ろうネ!」と約束し、その後も週末はKちゃんの帰宅を1度もかかさず、家族3人水入らずで過ごせることが、本当に幸せだった
リハ・療育園での生活-帰宅一時ストップ-
平成14年6月19日、いつものようにKちゃんをリハに送った帰りのこと。自分自身に異変が起きた。なんと突然、走行中に呼吸が苦しくなり、手足がしびれて失神寸前になってしまったのだ。原因は過労と極度の貧血ということらしく、病院で即、点滴を受けるはめになった。過労は解るのだが、極度の貧血というのがひっかかり、念のため産婦人科で診て貰ったら、案の定、子宮筋腫が出来ていた。そんなこんなで、体調を元通りにするまでに時間がかかり、少しの間Kちゃんの帰宅を断念することになってしまったのである。今まで欠かさずに、週末お家へ連れて帰っていただけに、悔しいやら情けないやら・・・。なにより、Kちゃんがどれほど悲しむだろうと思うと、ホントに辛かった。
リハの看護師さんが、そのことを伝えようとして、「お母さんがね、実は病気になっちゃってね・・」と、話し始めたとたん、Kちゃんは大泣きしてしまったそうだ。その後、「Kちゃん聞いて。」と言うと、Kちゃんは泣きやんで、目をしっかり見開き、看護師さんの話をじ~~っと聞いてくれた。「お母さんは、しばらくお迎えに来れないけど、治ったらまた来てくれるから。それまで看護師さんたちと病院で頑張れるよね?」と言うと「うん。」と答えた頑張り屋のKちゃん。言葉を話すことが出来なくなってきていた時だったので、この返事に看護師さんは、とっても驚いたそうだ。私も驚いた!それでもやはりその後しばらくは、大泣きしてしまったらしい・・